突然の旅人

大した話はない黒坂修のアホ旅日記

やばい奴との再会

早稲田の付属高校時代、俺はあまり友達ができなかった。16歳にしてすでに無難に生きていけばよい、という姿勢を纏ったつまらない奴が多かった。
修学旅行先で喫煙が教師に見つかった時、「俺はいなかったことにしてくれ」などと頼んでくる奴もいた。そんな高校時代にジャズを教えてくれてバンドを組んだり、街中や電車の中を這いつくばり平泳ぎする男が周囲を驚愕させ続ける映画を撮ったり、酒を飲んだり麻雀をやったりバイトをやったりしながら多くの時間を共にした男がいた。奴は大学にはいると音楽にさらに傾倒していき2年生の途中で中退して俺の前から消えていった。その頃、奴はすでに1級のジャズベーシストであり、俺がいた大学のジャズ研などは相手にもしていなかった。奴は自由で純粋で妥協をしなかったが、表面は軽く明るく常に鼻歌交じりの陽気な奴だった。大学へ入ると奴は野方の親元を出て荻窪と阿佐ヶ谷の中間点の線路際の共同トイレの汚いアパートに住んでいた。飲みに行くとよく怠惰な感じの女がいた。俺たちは女の話はしなかった。奴は守りを身につけた奴等にとっては、引きずり込まれるとカミソリのように危険な男だった。
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そして40年ぶりに再会したのである。もうやめたがフェイスブックに奴のほうから連絡があったのだ。再会の場所は、猥雑な街、蒲田の駅前ロータリーだった。

奴は約束の6時に10分遅れてやってきた。何かに酔っぱらったインドネシア少数民族が街に出てきて瞳孔が開きっぱなしになったような薄笑いを浮かべながらよたよた近づいてきて缶ビールを俺に差し出した。「まず、ここで乾杯だ。おめえ変わってねえなぁ。」・・・・・・こういうやり方に俺は一瞬驚きながら、何かがじわじわと蘇る感覚を覚えていった。「おめえもよく見ると変わってねえなぁ。おめえ大丈夫なのか。風呂入ってんのか。勤め人どもはおめえみたいな奴が一番恐ろしいんだ。おめえが歩いてきた周りだけ人がいなかったぞ。大したもんだぜ・・・・」
奴は60にはとても見えない本物の年齢不詳者だった。


蒲田の昭和40年代風のアーケードを抜け冷房の効きが悪い猥雑な台湾料理店に入って餃子と野菜炒めでビールと紹興酒を飲んだ。1週間前に電話で再会の打ち合わせをした時、60になったからといってカッコを付けた街や店に行くことはせず、雑多な蒲田や大森あたりの煤けた店で餃子でも食いながら安い酒を飲むことにしたのである。駅前広場で再会した後、俺はすぐそこにあった串焼き屋や寿司屋を提案したのだが、奴は「まあ待てよ。まずここで缶をゆっくり空けてから、そんなチェーン店とかじゃなくて、暑苦しいディープなここらしい店を探そうぜ。お前せっかちだなあ。」と言った。せっかく40年ぶりに会ったんだからこの時間を大事にしよう・・お前はいい加減で表面的だぞ・・もっと感動はねえのかよ・・心の底から話をする気はあんのかよ・・俺はそう言われているような気がして情けなかった。あれから40年、日々に流されて自分の在り様について正面から考えたり感じたりすることを避けて生きてきた人間が、鋭い人物に出会って視線を避けているところを見抜かれたような気がした。

店を2回替えて0時半ごろまで飲み続けた。話は奴のその後の変転流転と高校時代の出来事が中心だった。奴は「だいたい俺が面白い作戦を考えて、お前が周囲を押さえつけたり騙したりして実行に移すことが多かった。」みたいなことを言っていた。俺は反対だと思っていたが、例えば自主映画の製作費をクラス中から集め、そのほとんどを飲んで遣ったことがばれたときに逆切れした話などを聴くと、俺も相当悪かったのだなあ、と嬉しくなったりもした。この野郎とかバカ野郎とか言いながら笑いあい、周囲を見るとみんな20歳以上年下の奴らがおとなしく飲んでいた。

奴が数年前に作ったCDをもらった。ボサノバをベースにした奴のギターを中心とした弾き語りである。奴の詩はガラス細工のように繊細でナイーブで孤独である。音は、高度を極めた後に余計なものがそぎ落とされていった洗練である。
奴は40年の間に2回結婚して2回別れ子供がいないことが残念だと言っていた。スタジオミュージシャンがずっと本業と言えば本業なのだろう。バリ島に暮らしていた時期もあり音楽のほかに予備校の教師をやっていた時期もある。
1件目の台湾料理店と2件目のたこ焼き屋のねえさんに「こいつ60なんだぜ。驚くだろ。得体がしれないだろ」と言うと、奴が「ポリポリ」などと言いながら頭を搔くのを見て大喜びしていた。
俺は奴からこの夜40年ぶりに、暑くて油が染みついたような蒲田の街で、一時の開放感のようなものを味あわせてもらった。